2013年2月24日日曜日

ガーニードライブ回顧録 ~新聞ネタ~

 ちょっと、古い記事だがペナン島のガーニードライブに関しての記事を見つけた。内容的には大雑把なことしか書かれていないが、かつてここにビーチが広がっていたことや、貝がたくさん採れるようなきれいな海であったことがわかる。ペナンにカムバックする私としては、感慨深いものがある。

 記事は2月9日付だ。 the star online で「Beach along Gurney Drive just a memory」との見出し。

以下訳
「ガーニードライブ沿いのビーチのちょっとした思い出」

 年配のペナンの人々に尋ねる。-----それは、50歳以上の誰でもだ。そして、彼は今日のガーニードライブが、彼の幼少時代の日とすっかり変わっていると言うことをあなたに話すだろう。


 問題の現状は、ただ嘆かわしい。それは、多くのレストランや飲食店のため、過去10年以上腐敗し続けている。言うまでもなく、古風な趣のあるバンガローに取って代わって、高層階の住宅団地が道路やその近辺に広がり占領した。

 そして、それは毎日の交通渋滞と一緒で、改善するようには思えない。ガーニードライブの一方の端の埋め立てが、岸に水の流れを引き起こす原因とされる。

 しかし、ペナンで育った我々の多くにとって、私達が当時豊富だった貝殻を拾うことができたビーチがかつてここに沿って広がっていた。


 
  私達はまた、蛤かイガイを掘り出すことができた。そしてそれを私達は料理するためバケツで家に持ち帰った。

 無公害のガーニードライブはまた、1960年代から1980年代まで、毎年恒例のドラゴンボートレースの会場だった。あの一種の興奮は美しいビーチと綺麗な海と一緒に今は失われてしまった。
 
 私達はガーニードライブで本当に泳ぐことができたし、漁師が獲物を持って帰ってきて、ビーチにボートを係留するのを見ることが楽しかった。それはその当時、実際、海岸に沿ってカブトガニを探し出すことは一般的だった。
  
 しかし、それらは今、全て終わってしまった。 それは、決して戻ってこない。そして年配のペナンの人々にとって、とても素晴らしい経験を得たことに感謝しなければならい。

 依然として、ガーニードライブは、全てその不完全さのため、州内で最も高価な不動産が存在する。特にシービューの豪華なコンドミニアムは、ポンドスクエアーフィートあたり2,000RM以上の価格で意のままに使えることができる。

 ホテルや昨今のショッピングセンターは、威厳のある戦前の家やタイ、インド、中国、日本やミャンマーでカトリック教の司教を養成するのにかつて使用されたCollege General(神学校)の土地をさっさと買収した。 

 しかし、もっと重要なことは、マレー人、特に散歩道に沿って夕方静かに散策するペナンの人々は
ヘンリー・ラヴェル・ゴールズワーシー・ガーニー卿が彼の死後、その道路に彼の名が命名されたその人を知らなければならない。

 ガーニーは、1948年から1951年までマラヤの高等弁務官だったが、1951年10月6日フレーザーヒルに上っている途中で殺害された。

 共産主義者達は、彼が車内にいたことを知らずにマラヤン エマージェンシー(1948年~1960年連邦軍と共産ゲリラとの戦争)の最中、彼のロールスロイスを奇襲した。要するに奇襲は偶然だった。そして、共産主義者達はそれがガーニーだったことをようやく知った。マレーシアにおける植民地支配当局の上級職のほとんどの者は、後に新聞報道で彼の死を知った。

 マイ サイド オブ ヒストリーと言う彼の伝記の中で著者のチン・ペンは、暗殺事件が起こったのは彼が、ベントンの高原を越えて35マイル離れたところだったと言うことを書いている。

 「その事件は、翌日まで分からなかった。私達が高等弁務官が殺されたことを最初に知ったのは早朝のラジオ マラヤだった」と彼は書いている。

 彼の匹敵者のマラヤ共産党代表達と座っていて、私は短い驚きの静寂が起こったことを鮮明に思い出す。それは、そのとき、信じられないという叫びによってかき消された。と彼は書いている。

 彼の伝記の中で、奇襲は同志のシエウ・マと曲がりくねったギャップロードにそって2日間潜伏した36人のゲリラの仕業だった。  

 今日、フレーザーヒルに車で上る旅行者は、ガーニーが殺された場所の表示を見ることができる。彼は、チェラス クリスチャン セメタリーに埋葬されている。

 新しい沿岸道路がガーニードライブにリネイムされたときに広範囲な調査を実施したリタイアしたバーナマ(国営通信社)のジャーナリスト シェド・イムラン・アフマドは、その道路が何故運転のための道路、特に個人的な住宅への自動車道を意味する「ドライブ」と呼ばれるべきなのかに関して論争があったことを書いた。

 国内における国力の発達と50年代の政治的革命が少しずつ兆候が現れていた時に、一人の市の委員がガーニードライブは、パンタイ メルデカ(フリーダムビーチ)と命名されるべきだと1956年に提案した。

 この件は、地方議会に取り上げられた。そしてそれは、1957年8月31日から発効すると、1956年8月21日に決定された。その道路は、メルデカ ドライブとして知られることになりそしてパンコールロードの終点の円形広場はガーニーサーカスと命名された。

 故ヘンリー卿の胸像か像が建設されることになった。その当時、裁定書記官はこれに関してガーニー夫人に手紙を書くことを拒否した。そこで、市の委員は、直接ガーニー夫人に手紙を書いた。

 彼女は、とても毅然とした様子に変わっていた。そして胸像か像を建設することについて好意を持って援助を提案さえした。ロンドンの彫刻家と交渉し、ダビッド マクファルが500ギニーか4,500ドルで請け負うことに同意した。とシェド イムランは書いている。 

 しかし、ついに説得に成功した良識とはありがたい。財政委員会の前に胸像の6,000ドルの提供の提案があった。それは、胸像の提供を延期するだけでなく、その通りをガーニードライブと呼ばれ続けるべきだと決定された。

 もし、マレー人が今、滑稽な政治家がたくさんいると考えるなら、当時もそういう議員は少なくなかった。

 1962年、報道によるれば一人の議員がガーニードライブにモクマオウの木を2列に植樹して、景観を通じてペナンを美化しようとのテーマを提案し、ガーニードライブを「モクマオウ ドライブ」そして「モクマオウ ビーチ」にリネイムすることを熟考するように議会に要請した。とシェド イムランは書いている。

 数十年間の変化にもかかわらず、良かろうが悪かろうが、ガーニードライブは魅了し続けている。